2013年04月14日

予防接種について考えたこと

 最近、診察のときに予防接種を打っていないお子さんの親御さんとお話しをしていて「打ちたくない」と断られたことが、続けてありました。理由を聞くと、やはり予防接種の危険性について危惧がある、ということがいちばん大きな理由のようです。
 
 予防接種の危険性については、個々の話になりますとかなり細かい議論がいろいろとあります。このことについて、自分のフェースブックで相談したところ、大学のときの先輩の医師が、既にとても詳しいまとめをして下さっていたので、細かい議論についてはそのまとめを紹介するにとどめ、ここでは予防医療の全般について考えてみたいと思います。
 HPVワクチンのお話 HPVワクチンのお話2

 予防接種などの予防医療に限らず、クスリや手術など通常の治療もそうですが「それが医学的に適切なことか」という判断は、介入することで得られる利益(ベネフィット、といいます)と、介入することで危険に遭う可能性(リスク、といいます)とを天秤にかけて、ベネフィットがリスクを上回る、と見込まれる場合に「医学的に適切な介入」であると言えます。ここで注意したいのは、予防や治療の介入に伴う、副作用/副反応/合併症などのリスクが「ない介入はない」ということが前提になっている、ということです。つまり、予防だろうが治療だろうが、ある確率で、ある患者さんに対して、ある危険が起きてしまうこと、は避けられないのです。リスクはあるけれども、ベネフィットがより高いからこそ「適切な医療行為」とみなされています。

 さらに予防接種などの予防の介入を理解するために、難しいことがあります。クスリや手術などの通常の治療は、介入することで「治療をうけて病気が治りました!」と実感することができますが、予防の介入は「予防注射を打ったおかげで、病気にならずにすみました!」と実感することができない、ということです。というのも、予防医学のベネフィット/利益は、クスリや手術と違って『予防注射を打たない、ことで遭ってしまうであろう病気のリスクを、打つことで減らす』ということだからです。
 
 予防の介入では、みなさんにとても身近なインフルエンザワクチンで例を示しましょう。ある小学校に40人の学級がA組、B組と2つある学年があったとします。A組は全員がインフルエンザワクチンをうけなかったので、その冬は10人のインフルエンザが発症しました(30人は大丈夫でした)。一方B組は、全員がインフルエンザワクチンを受けたので、その冬は4人しかインフルエンザが発症しませんでした(36人は大丈夫でした)。B組は全員がワクチンを打ったことで「そのままならインフルエンザにかかってしまったはずの、6人のリスクを回避した」ことになります。

 クラス単位でみてみればワクチンの効果は明らかなのですが、B組のそれれの児童個人からみれば、たとえインフルエンザにかからなかったとしても、自分が「打たなくてもインフルエンザにかからなかった=打つ必要のなかった 30人」の側なのか、「打ったおかげでインフルエンザにならずにすんだ 6人」の側なのか、わかりませんよね。一方で「ワクチンを打ったのにインフルエンザにかかってしまった(B組の4人の側に入ってしまった)」ことは実感できますし、さらに「インフルエンザワクチンをうったせいで、腕が腫れて、熱も出てしまった」というような、副反応が出たことも、明らかに実感できてしまいます。

 こういった予防医学の介入を受けたのに「恩恵を受けられなかった」「むしろ害になった」という経験から、「予防接種は効果がない」「効果がないどころか害になる」と声を上げたくなる気持ちも十分わかりますし、予防接種による後遺症や死に至るような副反応を経験した、本人・家族にとっては「予防接種は害になるので止めろ!」と声を荒げたくなったり、予防接種の反対活動をしたくなるなるのも、もっともだと思います。そうした予防接種反対の発言を見たり聞いたりすれば「予防接種は怖いものだ」と思ってしまうかもしれません。

 ですが上で示したように、その予防接種に効果があるかどうかの評価は「クラス単位」といった「統計」でみるしかないのです。既に予防接種として世界的に実績があり、認められているものはすべて、統計的に効果が明らかなものしかありません。予防接種をうけて「効果がない」「むしろ害になった」と言う人の数よりも、実感はできないけれども「打ったおかげで助かりました!」という人の数が圧倒的に多い、ということです。つまり、「効果がなかった」「被害をうけた」ということを述べるだけでは、「その予防接種はダメだ」という判断材料にはならない、ということになります。予防接種には「利益も害もある」ことを前提に、全体のバランスを考えて、善し悪しの評価をします。・・・なんだか、理屈では分かっても、モヤモヤしてきますね。医者に言いくるめられているのではないか、と勘繰ってしまいそうです 笑。

 ドラえもんの「もしもボックス」で「もしも世界に予防接種がなかったら」とお願いしたとしましょう。電話のベルが鳴ったあと、世界中で致死的な病気が増えてしまい、病気による後遺症や、亡くなる人が圧倒的に多くなることでしょう。その現状の中で、ワクチンを受けて「効果がなかった」「むしろ害を受けた」という人の声は、「ワクチンのある世界」以上に、かき消されてしまうのではないかと思います。近くは、2009年に新型インフルエンザが流行したときの騒動が、それに近い状況かもしれません。「ワクチンがない、致死的な感染症が流行する」という状況下で、一刻も早くワクチンを製造しくれ、打ってくれ、という声が圧倒的多数になりました。あの騒動の中で「新型インフルエンザのワクチンには効果がないかもしれない」「ワクチンで被害を受けるかもしれない」という声もあったかもしれませんが、ワクチンを求める圧倒的多数の声に消され、そうした声を聞くことはまずできません。

上で紹介した先輩のブログからの引用ですが、
2003年のナイジェリアで、生ポリオワクチンが不妊やエイズの原因になると言われてボイコット運動が起きました。
What Led to the Nigerian Boycott of the Polio Vaccination Campaign?
その後ナイジェリアでポリオが大流行しました。多くの国々で、ポリオ発生数が減少しゼロになりつつ今も、ナイジェリアはまだ流行国です。
ナイジェリア北部でポリオ患者が急増、5年前の流言が影響


 さて、ここまで読んでおわかりと思いますが、予防的な介入は、基本的に「集団」を対象にしているものなのです。ここが、予防医療・予防接種に疑問を持つ「個人」の患者さんには非常に理解してもらいづらいところです。予防医療は、基本的に「集団全体に対して多大な恩恵をもたらすが、集団を構成する個人個人への恩恵となると少ない」というものだからです。先ほどのインフルエンザワクチンの例でも「打って恩恵を受ける6人」の側より、「打たなくてもインフルエンザにかからない30人」の側に入る可能性が高いのです。でもクラス単位、という集団でみれば「6人も」インフルエンザを減らす効果があるのです。 

 交通規則で、車のシートベルトを罰則つきの義務化にしてから一気に、交通事故の死亡率が減った、という話はご存じですか? 多くの人にとって、例えシートベルトをしなくても事故に遭う確率や死亡する確率はかなり低く、実際にシートベルトが「役にたった」と感じられる機会は少ないでしょう。人によっては「面倒なだけだが、罰則があるので仕方なくつけている」という人もいるかもしれません。車のシートベルトはまさに予防の介入そのもので、「多くの個人にとって恩恵はない=事故にも遭わないし、面倒なだけ」ですが、「集団にとっては、事故の死亡率を大幅に減らすことができる」という、ものなのです。子供がシートベルトで遊ぶことによる窒息の事故なども報告されていますが、こうした報告があるから、すぐに「シートベルトは危険なのでやめろ」とはなりませんよね。また、シートベルトをしていたのに事故死してしまった遺族が「シートベルトなんて意味がない!」ということもありません。統計的に、シートベルトをつけることによって得られる利益(交通事故死亡率の低下など)よりも、シートベルト窒息事故などの危険性のほうが上回れば、シートベルトの義務化を見直す動きになるでしょう。

 言ってしまえば予防医療は「集団の大きな利益ために、わすかな個人は犠牲になって下さい。でも誰が"集団側"で誰が"わずかな個人側"かは、事前にはわかりません」ということです。「あなたやあなたの子供のため」にも(実感できない)利益となりますが、それ以上に「みんなの利益のため」に打つものなのです。昨今「インフォームドコンセント」がうたわれ、治療行為の決定には患者さんや家族の意思の関わりも重要となってきました。しかし、こと予防医療に関しては「集団全体」に介入するからこそ意味が出てくるものであり、語弊をおそれずに言うと「個人の意思」の関わりが強くなり打たない人が多くなると、予防医療の意義である「集団の利益」そのものが損なわれていく、という可能性があるのです。

 だからこそ「集団に大きな恩恵がある」とわかっても「個人として害を受けてしまった人」はしっかりと救済しないといけません。副反応による健康被害は稀だけれども、避けることはできず、副反応が出た人は「集団のために犠牲になった人」なのです。そのために「予防接種健康被害救済制度」という制度があり、集団(国民全体)のために犠牲者になってしまった個人の被害補償は、集団(国)全体で行いましょう、ということになっています。

 ここに書いた一連のことを、予防接種に疑問をもつ親御さんに理解してもらうのは、本当に難しい作業だと思います。シートベルトと同様、予防接種に対して全く疑問もなく「やるものだから」と思って打って下さる(大半の)親御さんはよいのですが、疑問をもっている方に、そのまま正直に「お子さんに恩恵があるかどうかはわかりません。いやむしろ恩恵はほとんどありませんが、低い確率で恩恵を受けることができます。しかしその実感もできません。また、わずかの確率ですが被害を受けることもあります。ただ集団のためには、ぜひ打って下さい。個人としてリスクを背負って下さい」とストレートに説明して、納得して下さる親御さんはなかなかいないでしょう 笑。

 難しいですが、こうしたことをなんとかわかるように伝えていきたいし、医療の側の考えの押しつけでなく、お互いに理解をわかちあいたいなぁ、と考えています。



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2013年04月07日

臨死における物語

以前の職場にいるときから3年越しで、継続してみていた在宅患者さんが、旅立たれた。在宅で、自分ひとりで3年もみた方は、はじめての経験だったので、とても想い入れの深い患者さんのひとりだった。

年末に病院に入院して退院は困難と思われていたが、ケアマネージャー、リハビリ、在宅&病棟看護師、訪問栄養士、と他職種で何度も相談を重ね、やっと退院できた。その翌日、自分の退院後の初回訪問にあわせて担当者会議(患者宅で関連職種がケアの相談を行う会議)を行い、ターミナルだがこれから在宅で頑張っていこう!、と在宅チームの「結成式」を行った矢先のことだった。

病院では全く食べられなかった食事だが、少量のみ夕食を美味しく食べることができ、しばらくして状態が急変したそうだ。まず自分に急変を知らせてくれたのは、うちの訪問看護師だった。患者さんはうちの訪看を使っていないのだが、以前その看護師さんが別の事業所に勤めていたとき、この患者さんを担当していた。退院を聞いて「患者さんに会いたい!」と言っていたため、看護師としてでなく、患者宅に物品を届ける「おつかい」をお願いしたのだが、たまたま病態が変わった直後に家に行って自分に連絡をくれた。

自分も医師会の夜勤中だったので、少し遅れて到着した。孫まで含め、親戚という親戚が大勢集まり、「おじいちゃん!がんばって!」「おじいちゃん!ありがとう 」となどの声かけを繰り返す中で、自分が到着した瞬間、まさに最期のひと呼吸をして、そのまま旅立たれていった。

自分としては、せっかく退院できて、今からというときだったので、
「ターミナルとはいえ、こんな早くだなんて・・・」
「やはり自宅に帰ってきたことが身体の負担になったのか・・・」
「退院時のマネージメントに落ち度があっただろうか・・・」
などと軽い自責の念にいたのだが、ひと呼吸おいたあとの家族の感想は

「きっと、自宅に帰ってきて、ほっとしたんだねぇ」
「先生が到着するの待っていたんだよ」
「状態が変わってどうなるかと思っていたときに、看護師さんが来てくれて本当に助かった」
「最後にご飯も食べられて、苦しまずに逝けてよかった」
・・・などと言ってもらえて、ホント救われた気がした。

******

自分は夜間で時間がとれるときの看取りは、できるだけ最期のケアも看護師さんや家族と一緒に行うようにしている。慣れてきた最近は、「お着替えは何にしましょうか?」「葬儀屋さんには連絡しました?」「最後の手の組み方はどうしましょうか?地域によって風習が違うので」「体拭くの御家族も一緒にやりましょう。ぜひお孫さんも!」「おばあちゃんに、最後にお化粧してあげましょうよ」など、看護師さんがエンゼルケアに集中できるよう、ケア周囲のマネージメントを行うようにしている。

一番好きなときは、自分も混じって、家族と一緒に患者さんの体を拭いている時間だ。家族の悲しみもちょっとひと段落して落ち着いており、このとき自分は必ず家族に聞くようにしていることがある。

「娘さん(お孫さん)にとって、お父さん(おじいちゃん)って、どんな方だったんですか?」

そうしたとき、たいてい家族は「はっ!」っとなったあと一瞬考え込み、「ひとこと」でその方をあらわす言葉が出ることが多い。

「とっても、、やさしい父でした」
「とっても真面目な人だったです」
「明るい人でねぇ。。。」

人それぞれ様々な感想が出るが、その感想に関する昔話のエピソードがそのあとに続く。たいていが、「泣き笑い」のなかで、なんとも幸せな時間がすぎる。みなで本人の体を拭きながら。

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帰りの車を運転しながら、いろいろなことが頭を駆け巡った。

いくらターミナルとはいえ、メディカルには、こんな退院直後に亡くなるというのは一つの失敗、とも考えられる。もうちょっと、最期の時間を家族とともに自宅で過ごせるようなやりかたはなかっただろうか。。。

一方で「物語」としては、あまりに「出来すぎ」ている。
家族がいう「自宅にかえってきて、ほっとしたんだよ」という説明。医学的な説明でも何でもないのだが、なんだか、あまりに自分のなかで腑に落ち過ぎる説明なのだ。さらに、
「病院で一口もとれなかった食事をとれた直後に状態が変わったこと」
「入っている訪問看護でもないのに、たまたま以前からよく知る看護師が訪問する直前に急変し、家族を安心させた」
「以前からずっと診ていた主治医が、着いた直後に息を引き取った」
などなど・・・。
自分はユングにはさほど詳しくないが、これほどまでに「出来すぎた物語」が紡がれると、「共時性??」などと考えてしまう。。。

臨死の場において「生」を最終目的とする医療はあまりに無力だ。死の最後まで医療でマネージメントしようとする場合、死に対してどんな経過をたどろうとも、最期は、モニター心電図の波形がフラットになるのを待つ以外に手はない。またはそれすら選択できず、気管内挿管や心臓マッサージを行うこともあるかもしれない。

しかし、臨死の場面で「物語」の存在は絶大だ。病院の死は「物語」を殺してしまうため、それが見えづらいが、在宅死において臨死の場面の「物語」は生き生きとその姿をあらわす。(在宅死を、絶対視しているわけではない。あくまで患者の物語が生かされやすい環境、というだけ)

問題は、臨死の場面の「物語」に対して、生業(なりわい)として接することができるのは、医療者しかいないということだ。葬儀屋さんや宗教も、死に関わるには関わる。特に宗教は、本来的には「物語」をもっているものである(日本では形式宗教がほとんどだが)。・・・しかし、宗教が関わるのは、臨死の場面の「あと」のこと。そして唯一、生業として、臨死の場面に関わることのできる医療者の多くは、物語を語ったり、物語をマネージメントするトレーニングを受けていない・・・。

医学は基本的に科学的根拠を持って発展してきたが、同時に人間のもつ「物語性」から離れることは決してできない。家庭医のトレーニングでは、患者さんには科学性と物語性の両側面からアプローチするものだ、ということは教わっていた。しかし、今回気付いたことは、臨死の場面においては科学より物語のほうが圧倒的に必要になってくるし、重要性が高いということだ。

あまりに「出来すぎた」と感じたこと。どうしても科学で説明できないことが、臨床の現場にもある、おきる。それは、患者さんと家族、医療者など関わる人すべてが織りなす「物語」に真摯に目を向け、流れを大切にし見つめていると、自然とわき出てくるものだと思う。ただし「患者さんのことを考えよう」とか「医療倫理」とか、表面的な使命感を意識しているだけでは、生じてこない。もっと大きな枠で、ある種、動物的な部分で、考えるのではなく感じることによって、生じてくるものだと思う。


posted by smc at 19:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月08日

ありがとう、を届けるためには?

昨日、クリニックに来られた製薬会社の医療情報担当さんと話していて感じたこと。

製薬会社(や機器メーカー)はエンドユーザーである患者さんと、商品を選択する人(医師、医療者)が異なるということや、エンドユーザーの声が直接会社に届く機会が少ないということ、また商品を使ったあとの評価もエンドユーザーのみではできない(薬の効果の評価が、患者さんと医療者で異なることもある)などが、他の一般的な商品と大きく異なることだ。

医薬品や医療機器を作っている、ということから社会的使命は強い企業であるべきかもしれないが、エンドユーザーの声、単純に患者さんからの「ありがとう」、を聞くことが難しい立場、というのは、逆に仕事のやりがいをもつことが難しいし、使命感を維持するのも難しい。勢い、薬や機器の売り上げ、という数字が、唯一の仕事の達成感を測る指標となるため、患者さんでなく、商品を選択する医師・医療者、のほうばかり向きがちになってしまう。

これを、メーカー、医療者、エンドユーザーである患者、という関係のうえで、もっとメーカーとエンドユーザーを直接結びつける、うまい仕組み。エンドユーザーとメーカーが双方に感謝を言える、win-winの関係を築き、メーカー側が患者のことを真摯に考えれば考えるほど、ユーザーの感謝の声がメーカーに届き、同時にメーカーの売上も伸びる、という、上手な仕組みはないものだろうか?

自分ではその答えはもっていない。
もし誰か成功事例など知っていたら、教えてほしいです。
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2013年02月25日

電子カルテのトラブル

うちの電子カルテは、サーバーが院内にはない、クラウド型のものを採用している。本日、突然、会計ができなくなった。いそぎ、会計出来ない患者さんは未収扱いにして帰宅させ、とにかく受付を回すように指示。幸い、障害は数十分で回復した。

他のカルテ機能が生きていたことや、カルテ会社に電話しても(混雑で)つながらないことをみると、カルテ会社のメインサーバーが原因の大規模障害だったのだろう。

私が来てからこの2年、サーバーの大規模障害や、施設内の回線障害で何度かカルテが使えない事態が発生している。電子カルテがダウンすると、業務の一切が回らなくなるので、スタッフが浮足立つのがわかる。

そのとき必要なのは、まずはとにかく自分が怒ったりイライラしないこと。とくに「電子カルテ会社に」怒るのは論外で、怒っても何も解決しないし、相手も回復に必死なので、それを邪魔することになる。大規模障害のときはそもそも電話もつながらない。怒るのはいくらでも後で出来る。

とにかく、現場でできる範囲でいまの障害の状態を把握し、その上で現場を回すシステムをその場でつくって指示すること。その点、311で経験した計画停電で、電子カルテなしで現場を回すシステム構築したことはとても役にたっている。

「電子カルテは使えない」ことをすぐ受け入れて、頭を切り替えて、「じゃあどうするか」と素早く考えられるかどうか、がとくに現場のトップには必要だと感じる。

これは電子カルテだけでなく、全てのトラブル対応にも同じことが言えることだろう。
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院長が知っておきたい!スタッフとの関わり方

クリニックに届く私あてのFAXは、いつもならスタッフが机に置くだけなのですが、このFAXはわざわざ「はい、勉強会の案内がきていましたよ」と、満面の笑顔を込めて、渡されました。
私も、「講師としてなら、ぜひ参加します」と満面の笑みをこめて、スタッフに返事をしました。

スタッフとの関わり方.jpg
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2013年02月10日

ちょっと嬉しい御近所感

患者さんが、「上手に撮れたのであげます」と、うちのクリニックの入口の写真を受付に置いてサッと去っていったそうです。
このさりげない心使いが、ご近所感というか、地域だよなぁ、とチョット嬉しい。

クリニックの写真.jpg

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2013年02月05日

看取りについて

医師だが現在、社会系の大学院に通い在宅の看とりについて社会学研究を行っている、ある先生から、研究のお手伝いでインタビューを受けた。

「看とりと在宅医療に関して、日ごろ感じていること」
「看とりは敗北か?」
「看とりは地域で考えるべきか?」
さまざまな質問に答えることを通して、自分でもいろいろと深く考える、良い機会を持てた。

質問に答えながら、ふと気付いた。そもそも病院という場において「看取る」ことは、できないのではないか? 思い出すと、自分が病院で働いていたときも、患者さんが病院で亡くなることについて「看取る」という表現はあまり使っていなかった。あくまで在宅など「生活の場」で死を迎えるからこそ「看取る」ということができるのではないだろうか。

そう考えると「看取る」というのは単に、「死の場面に同席する」「生物としての終了を確認する」ということでは、決してない。勿論その意味も含むが、それ以上に、死を迎えた人の人生の意義を確認し、関わった家族や医療者など「生の側」に残る人と「死の側」に旅立った人との、新たに作られた関係性を確認し再定義する、そういう作業なのではないかと思う。

「それは医療者の仕事じゃない、宗教が行う仕事だ」と思うかもしれない。確かにそうだ。しかし、いまの日本で形骸化した宗教に、本当にその役割を担えるのだろうか?。

過去、いちどだけ、深くかかわった患者さんの葬儀に出席したことがある。その患者さんはプロテスタントであり、教会の葬儀に出たのは初めての経験だった。キリスト教の葬儀が全てそうかどうか私は知らない。だがその式では、参列者みなに分かる言葉で、本人の死の意義をあらためて提示し、「みなで天国に送る」ことを実感できた儀式だった。不謹慎かもしれないが、その新鮮な体験に「感動」したことを鮮明に覚えている。これが「本当の意味での葬式なのだ」と感じた。

過去、多くの仏式、神式の葬式に参列したが、正直、どの式でもお坊さんや神官が何を言っているのか全くわからなかった。御経や祝詞の合間にときに聞こえる固有名詞をかろうじて判別できるだけで、あとは終わるのをじっと耐えるのみ。死の意義を提示されることも、参列者に話しかけることも全くない。わざと分かりにくくして、権威を付与しているのではないか、と勘繰ってしまう。

形骸化した宗教が、生き残った者に対して、死の本当の意味を付与する役割を担えないのであれば、医療者がその役割を、わずかであっても、できる範囲で、担うしかないのではないか?ちょうど、父親や母親が不在の家族で、子供が父・母の役割を、不十分であっても担うようになるのと同じように。 

死亡確認=看取り、ではない。

これからも在宅での看とりに関わっていくならば、自分では役不足だし不十分なことを承知しながらも、よりよい「看取り」ができるよう精進していかなければならないのだろう。

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2013年01月30日

学校医の依頼

ついに来た来た、、、医師会から、学校医の依頼。

「来年、学校医の先生が数人、一気におやめになることになって・・・」
「なかなかやってくれる先生がいないもので、先生にお願いできないかと」
「とはいえ、仕事はこんなにも少ないですから、何とか」
・・・と、とても謙ってお願いされましたが、勿論やらさせて頂きますよ(^^

仕事は増えますが、学校医として地域で試したいこと、いろいろあります。
もともと学校医の先生は決まっているだけに、自分からやりたい!と手を挙げるのは、出来ないものなので、何とも嬉しい依頼でした。
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2013年01月25日

真冬の怪談

その日は午後の訪問診療の処理に時間がかかり、その他の書類も随分とためていたので、夜遅くまでクリニックに残って、ひとり事務仕事をしていた。

仕事もひと段落し、さて帰るかと携帯をもち、荷物を手に取った矢先、突然クリニックの電話が鳴った。

(誰だ、こんな夜遅くに、、、)

無視してもよかったのだが、患者さんが何か困って電話をかけてきたら、ということが頭によぎったため、少し考えてから、受話器をとった。

相手「・・・・・・(無言)」

(イタズラ電話か?)

私 「もしもし?」
相手「・・・(遠くのほうから)モシモシ?」

(そっちから電話かけたんだろう・・)

私 「どなた様ですか?」
相手「・・・・ ドナタサマデスカ?」

(やはりイタズラ電話なのだろうか、、、)

しかし、なんだか雑音も入っている遠くからの声、、、
その後暫く、相互の沈黙が続いた。
ほんの10秒くらいだったかもしれない。
なんだか背筋が寒くなってきた。
時計は、もう0時近くを指していた。

(誰なんだ、ほんとに・・)

そこでふと気が付いた。

そうだ!クリニックの電話には、相手の電話番号を表示するナンバーディスプレイがある。とりあえずイタズラであっても、相手の電話番号はわかる。

そこでみた電話のディスプレイ

なんとそこには・・・・見覚えのある自分の携帯電話の番号が表示されていたのだ!

(ヒィィィ!!)

はい。
自分が携帯を手にしたとき、自分でクリニックに間違い電話をしていただけでした。
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2013年01月11日

医療の不確実性

「医療の不確実性」を患者さんにどう理解してもらえるか?
 
特に病院で働いていたときには、治療の結果がはっきり出るため、悪い結果が出たとき、まれに患者さんや家族から責められる、という場面に遭遇することもあった。もちろん治療としては標準的治療を行ったとしても。

自分は病院では内科医だったが、結果がさらに明瞭に出る外科の先生にとって、患者さんに「医療の不確実性」を理解してもらうことは切実な問題ではないかと思う。その他、整形外科、眼科、耳鼻科、脳外科、など後遺症がはっきり自覚できる領域などもそうだろうし、産科に至っては周産期死亡率が世界一低く「正常であたりまえ」の昨今、期待値も高く、正常でなかったときの落差があまりに大きいため、両親や親族に「医療の不確実性」を理解してもらうのは至難の業かもしれない。

どんな優秀な最高の医療を行っても、100%良い結果で悪い結果がゼロ、ということは絶対にない。医療者の側からみれば、悪い結果は確率的に絶対に起こってしまうことだ。しかし患者さんの側、というか結果の側からみれば違う。結果は、白か黒か、どちらかだ(灰色の結果も実は多いが、医療の不確実性、の話として)。将来の確率論的な視点=医療側の視点と、結果からの視点=患者側の視点が異なり、ときに結果の視点から、将来の確率論的な視点が裁かれてしまうことがある、というのは永遠の課題でもある。

この視点の違いをどう説明すれば、視点の歩み寄りができるだろうか、、、、

ふと思った例えが、治療にあたる患者さんと医師の関係は、入試試験を控えた受験生と、勉強を教える先生の関係に似ている、ということだ。どんなに出来のよい生徒でも、どんなに優秀な先生でも、試験は水ものなので、体調やちょっとしたミスや焦りなんかで、落ちるときは落ちる。逆に、どんなヘボな先生でも、あまり出来の良くない生徒でも、その日の調子やヤマがあたって受かってしまうこともある。ただ、優秀な先生、生徒であればあるほど、試験に合格する「確率」は高くなるし、ヘボであればあるほど「確立」は低くなる。あくまで、確立、の問題だ。

「受験は受験生本人が意識して頑張るかどうかにかかっているが、患者は単なるまな板の鯉だ」というかもしれないが、患者さんの「意識」はまな板の鯉だったとしても、体のほうは懸命に頑張っている。感染症についても、どう正しい抗生剤を使おうと免疫力が低下していれば治療することは困難だし、術後の回復にしても同様、手術はできても回復は患者自身の治癒力に委ねられている。

ただし「標準的治療」の範囲を超えては、さすがにアウトだ。他の医師も「これはおかしい治療だよ」というような治療を施して悪い結果が出たとしたら、これは責められてあたりまえ。受験生にソロバンを教えて、受験に落ちたら先生が責められて当たり前なのと同じだ。しかし、「標準的治療」を行っていたとしても、その範囲が非常に広いのもまた事実。「標準的治療」のなかに、ヘボもいれば優秀なのもいる。当然その優劣によって、結果の「確立」も変わってくる。

医療資源は限られている。いくら自由診療といえども、現実的に、患者にそれほど多くの選択はない。また一般の患者が医師の優劣を判断する基準も、実際は多くはない。ツテをつかって医師の評判を聞くか、実際医師と話をして信頼できるのか、直感に頼るしかないかもしれない。最近はセカンドオピニオンも広まっているのでそのような手もあるにはある。その限られた選択肢のなかで、bestは無理でもbetterな医師を選び、最終的に治療するかどうか、までの決定権は患者にある。決定した後は、へぼな医師でも優秀な医師でも、選ばれた医師はその医師なりに頑張る。残念ながら結果は「水もの」だし「確立」に委ねられるしかない。

医師の言い訳、のように聞こえるかもしれないが、受験生を送り出す先生のような気持ちで、医師は治療にあたっている、ということを少し患者さんに理解してもらえるとうれしいな、と思う。
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2013年01月09日

地域医療の仕事

 年のわりに元気で大きな苦痛もなく、まぁ幸せに生活しているんじゃないかな、と思われる80代、90代の高齢者の患者さんから「もういつ死んでもいいよ」「こんなに長生きするつもりじゃなかったのに、、、」「そろそろお迎えに来てほいなぁ」という意見を普通に聞くことが多いです。別に「高齢者うつ病」とかではなく、とても自然に本音をいう雰囲気で、そのようなつぶやきを聞きます。ときに家族からも、本人を疎んじているということではなく「おばあちゃん、そろそろお迎え来てもいいよねぇ」など、周囲が納得する雰囲気で、半ば冗談ながらも同じような意見をきくことすらあります。

 病気をとことん克服しつくし、社会の栄養状態も改善し、多くの高齢者はそこそこ快適な生活を送っている。この先、アンチエイジングの技術、癌の克服、さらにはiPS細胞の技術の臨床応用などでますます病気を克服し、長生きを進めて、その先に個人や社会の幸せはあるのかなぁ、と思います。

 地域医療を担う医師は、まさにその自然な疑問と正面に向かい合って、健康に関する幸せって何なのか、現場現場で再定義しなおして、目の前の患者さん(そもそも"患"者、という言い方が意味を限定してますね)に適応していく、というのが仕事なのだな、と改めて思います。
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2013年01月05日

施設での看取りについて

最近、自分のクリニックの付属施設、以外の施設での看とりを、続けて経験した。両施設とも看とりは初めての経験で、施設側も当初は躊躇していたが、いろいろ話し合いのなかで何とか一例目を経験することができた。

これからは「施設での看とり」はいやがおうにも、時代のテーマになってくる。今回の経験のなかで、いくつか気付いたことがあった。

まず居宅と施設の看とりを比べて一番大きな違いは「施設には訪問看護師がいない」ということだ。看護師がいる場合でも、日中だけの勤務で夜間の臨時対応はやらないことや、点滴などちょっと踏み込んだ医療処置は行わない(という条件でそもそも就職している)ことも多い。

だが、どうしてもターミナルの時期は医療行為が不可欠だ。経過がソフトランディングで穏やかであっても死に向かう変化はあり、苦痛や便秘の対応、点滴など医療的な処置も必要になることも多く、夜間休日の臨時対応も増える。死後の処置も必要だ。医師だけでこの医療行為全てを行うのは体制的に難しい。

ひとつの解決は、施設の看護師で対応が難しいなら、外の訪問看護を入れてしまうこと。ただこれは事前にしっかりと施設側、依頼する訪問看護ステーションと事前に話をつけておく必要がある。ただし、介護付き有料老人ホームやグループホームは「まるめ」のため、介護保険の限度額まで施設で使いきっており、外の訪問看護ステーションが介護保険を使う余裕はなく、医療保険でないと訪問看護が入れない。しかし医療保険を使って訪問看護が入れるのは、がん患者や特定疾患患者だけなので、いわゆる老衰など、非がん患者のターミナルでは医療保険を使うことも許されていない。例外的に状態が悪化したときの14日間のみか、重度の褥瘡のときは医療保険を使えるが、それだけで非がん患者さんを看取る体制が作れるはずがない。しかも、施設入居中の方が何らかの病態の変化で、施設での看とりを考えるような状態になるのは、がんや特定疾患よりも、非がんであることが多いだろう。
そのきわめて制度的に限られた条件のなかで、医療機関−施設−訪問看護ステーション と話し合って、看とりの体制を作っていくということになる。

ちなみに当院の付属の施設は、そうした制度の限界があることを分かったうえで、最初から施設で医療行為・看とりを行うことを前提に作られているため、「在宅型」の有料老人ホーム、の形態をとっている。つまり、介護付きの施設ではあるが、個々の部屋は患者さんの「賃貸住宅」扱いであり、訪問看護・介護ともに居宅にいる患者さんと全く同様の「外部サービス」利用のため、訪問看護における制度上の問題は生じない。

結局、現実的には、施設にいる看護師さんに出来る範囲での看護の体制をとってもらい、看護師さんがいない施設については介護士さんでできる範囲での体制をとってもらい、できないことはできない、と割り切った上で、家族にも納得してもらって、看とりの体制をとっていくしかない、ということになる。点滴が必要でも日中の看護師が勤務している間しかできない、夜間休日の病態の変化でファーストコールは看護師でなく医師が対応する、看護師がいないときに痰づまりがあっても気管吸引はできない、死後の処置は清拭や着替えのみ行いあとは葬儀屋さんに任せる、などなど。それぞれの施設の考え方や事情をよく聞き取って理解したうえで、患者さんの病態や状態とあわせ、予想される変化への対応について、出来ることと出来ないことを具体的に想定し、医師・施設スタッフ・患者家族ともに共有しておく必要がある。また、医師はふだん訪問看護がどんな仕事をしているか理解し、ある程度は医師自身も訪問看護師と同じ働きができないと、そうしたマネージメントをすることは難しい(例えば、死後の処置を自分も一緒に行いながら、介護士に指導できるなど)。

施設看とりをする上で最も大きな具体的な問題がこの「看護体制をどうつくるか」ということと私は感じているが、その体制をつくる前提として「そもそも組織全体の方針として、施設での看とりをどう考えているのか」ということを明確化して医師・施設・家族ともに共有して確認しておきたい。そのためには、施設の責任者はもちろんのこと、もし全国展開している大きな組織であれば、さらにその上まで話をもっていってもらって巻き込んでおく必要がある。責任感のつよい、やる気のある現場スタッフや施設長ならば「うちで看とり、頑張りたいです!」という意気込みを持っていることも多いが、たとえ現場がそう思っていても、その上がそう思っていない、ということもあるからだ。

今回も、施設長のさらに上の人も呼んで話し合いに巻き込んだため、その後はスムーズにことが運び、現場スタッフや施設長も、その上が理解していると思えばこそ、安心して看とりのときを迎えることができた。

また、最期の看とりに直面する、現場スタッフの教育も欠かせない要素だと思う。スタッフが看護師ならば研修中に病院でさんざん看とりの場面は経験しているため、例えその施設では初めてでも動じることはないだろうが、介護スタッフの場合「もし今夜、呼吸が止まったらどうしよう・・・」という不安でいっぱいになるのが当然だ。だからこそ、がん・感染症・老衰、などそれぞの病態にあわせたターミナルの病態変化について、どのように変化するのか、また変化したらどう対処するのか、ということを具体的に細かく説明しておくと、介護スタッフも安心して最期を看取ることができる。
「顎で息をするようになると、いよいよ数時間で息をひきとるサインです」
「たとえ苦しそうな呼吸に見えていても本人は苦しくないので大丈夫ですよ」
「呼吸が乱れてもすぐ医師を呼ぶ必要はなく、呼吸が止まったことをしっかり確認してから連絡でよいですよ」
「さっきまで変化がなくても、見回りにきたら息がとまって発見される、ということもありますが、そういうものなので焦る必要も自分を責める必要もないですよ」
・・・など、居宅で最後を看取る患者さん家族に対するのと同じ様に説明しておくと安心するだろう。個々のスタッフに医師から説明するのもよいが、ちゃんとカンファレンスを設けて、医師から直接、または施設長や施設の看護師から、そうしたことを現場の介護士に共有するようなミーティングの場を作っておくと、落ち着いた現場の雰囲気が作れる。

今回、2つの施設でのはじめての看とりを経験したが、どちらも組織の考えや、実際にとれる体制などがそれぞれに異なっていた。「施設看取りはこうしたほうがよい」という一つの答えを提示することができないのは、在宅で看とりをするときと全く同じだ。だからこそ、医師・施設・家族、その他関係者をまきこんで、それぞれオーダーメイドで看とり体制を作っていく、ということを続けていくことが、結局は、逆に、全国どこでも広く行えるような、施設看とりの大きな潮流を形づくっていくことになるのではないか、と感じている。

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2013年01月04日

アイデンティティ

先日、うちのクリニックを去って地元に戻る予定の寺内先生と話していて、在宅患者さんの話題になった。在宅だと、外来に比べてもより医師-患者関係も深くなっており、自分が去ったあと患者さんがどうなるか、とても不安だと。これがもし「ここが自分が一生やる場所だ」と決めていたら、自信をもって「最期までみるからね!」と患者さんに声をかけられる。ただ今の場所は(去ることを前提に来たため)それができない。だからこそ自分は、しっかりホームベースを早く作りたいのだ、と。そして、ひと呼吸おいて呟いた。「地域医療、これが怖い、、怖いなぁ」

それを聞いて、自分の中で今まで悩んでいたパズルのピースがふっとはまった。

昨年末、東海大学の学生さんに対して、家庭医療ワークショップを行った。自分は家庭医の基本的なことのレクチャーを担当したが、その中で、「家庭医」を表す言葉は、家庭医以外に、地域医療、ジェネラリスト、総合医、在宅医、プライマリケア医、などいろいろあって、概念もそれぞれ微妙に重なっていたり、異なっているような話をした。

その話を作りながら、今の自分のアイデンティティを顕す言葉って、いったい何になるのだろうか、、、といろいろと考えていた。以前からも考えていたが、答えは見つかっていなかった。

自分は「家庭医」の研修をうけていたため、いままで身分を名乗る必要があるときは「家庭医」を名乗っていた。名刺にも「家庭医」の肩書きをあえて入れてある。「家庭医」という言葉自体がキャッチーでもあり、人との話題にもなりやすいし、印象に残ってもらいやすい。地域でもちょっと深く話した人には「家庭医の小宮山先生」と覚えてもらっていると思う。

ただ正直にいえば、自分の中では「家庭医」という言葉は、どうしっくりときていなかった。何だか言葉自体が輸入された感じもあるし、「家庭」医って、けっこう概念が規定されている言葉だなぁ、とも感じていたからだ。また、自分のなかでは、臓器別専門医に対してのアンチテーゼの意味も含んでいるような印象もある。それが、どうもしっくりこない違和感に通じていたのかもしれない。

それが改めて「地域医療」という言葉に、尊敬と畏れの念が込められた「地域医療、これが怖い、、怖いなぁ」という呟きをきいたときに、これだ、と腑に落ちた。地域医療、という言葉には、専門医と総合医の対立概念も含まれていなければ、狭義の医学生物学的医療に限定された意味も含んでいない。何より「つながり」をもってはじめて成立するような医療の意味合いをふくんでいるのが、自分のなかではいちばん腑に落ちた点なのだと思う。

考えれば、10年以上、医療現場に携わってきて、自分の中でもっとも価値をおきたいと思っていたのは、地域住人とのつながり、同僚とのつながり、一緒に働くスタッフとのつながり、だった。そのつながり、がもっとも前面に出ている言葉が「地域医療」ではないかと思う。

これからもおそらく「家庭医」という言葉は名乗っていくと思う。マイノリティーとして外にアピールするには、これくらいキャッチーな言葉が必要だからだ。ただ、自分の中では、「地域医療をやっている」というのが自然な自分のアイデンティティとして持ち続けていくことになるのではないか、と感じた。
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2013年01月01日

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年も書道の先生である患者さんが書いてくれました(^o^)

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2012年12月04日

良いことあるかな?

午後訪問開始。良いことあるかな。
うっすら二重になってるの分かります?

虹.jpg

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2012年11月23日

「翻訳」家として

訪問診療でずっと長いつきあいの患者さんが、1カ月前に入院となった。入院中の経過も紆余曲折ありながら、結局は意識障害となり、病院の医師から胃瘻をすすめられ、大きく悩まれる状況のなか、在宅主治医として相談を受けた。

病院側からの情報診療提供書をみると、確かに医学的にも難しい経緯で、病院の先生も悩みながらの治療をして、それでもはっきりしなかったり、治療しきれないところも多かったようだ。その部分について、依頼している自分が、どうこう言える立場ではない。また安易に、家族に「こうすればよかった」などと、決して言ってはいけないとは思う。

ただ、入院の経過説明が不十分だった点については、どうしても家族は納得しておらず、私もその点についてはやんわりと同調・共感をしつつ、あらためて家族に対して、情報診療提供書を一緒に読みながら、「翻訳」して家族に伝える。おそらく病院の先生も内容の説明はしているとは思うが、家族としては「初めて分かった。初めて聞いた」という反応で、経緯について腑に落ちてくれたようだった。専門医の「翻訳」は、家庭医にとって、大きな仕事のひとつ。そこで納得してくれて、はじめて次のステップにいける。

胃瘻をつくるメリット、デメリット。とくに、長期的な介護になることについての介護負担の説明。また、そのまま胃瘻を作らず退院して、自然死という選択もありうるということ。帰る場所として、自宅以外に、施設も種類が多々あり、それぞれに特徴があること。またそれなりに時間もかかること。

家族の想いを受け止め、それだけの作業を納得してすすめるにはどうしても時間がかかる。平日の業務内。または業務後、であっても、それだけ時間をかけるのは難しい。

今日は休日だが、休日だからこそ自分も思う存分時間をかけて、十分な理解を得られるところまでもっていくことはできた。ある意味、とても有意義な休日を過ごしている、と感じる。
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2012年11月14日

似顔絵

うちの施設の入居者の方が、私の似顔絵を描いてくれました(^^)

似顔絵.jpg


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2012年11月11日

職員対象の一次救命処置、の講習

職員対象の一次救命処置を開催。
やっとこういうことが出来るようになってきた。
ちなみに、講師は、もと救急救命士で消防署長でもあった事務長です(^_^)

BLS.jpg

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2012年10月31日

モヤモヤはなくならない

 在宅で最期を迎えることを希望して一切の治療を拒否し、自宅で診ていた癌のターミナルの患者さんが肺炎になった。自宅での抗菌薬の点滴も奏功なく、呼吸不全がすすみ、家族ではとりきれない痰づまり、呼吸困難も出現して臨時で呼ばれた。

 苦しそうな頻呼吸、低酸素。ずっと一緒に看ていた訪問看護師さんには「家にいたい」と訴えていたが、自分が呼ばれたときにはすでに意志をはっきり示せる状態にはなかった。「苦しさをとってほしい・・・」とかろうじての訴え。

 このまま在宅酸素など入れてしのぎつつ、本人の意志を尊重して、苦しさの中で自宅で最期までみるか、、、。ただ病院なら肺炎も治る可能性もある、、、しかし、治っても自宅に戻れるようになるか、、、。悩む時間も許されないなか、家族から「これ以上は家では診られません」とギブアップ宣言。家族が診られないならば、、、、半ば説得するかたちで、本人にも入院を了承してもらって、病院に搬送することになった。

 「また肺炎がよくなったら、帰ってきて、家でみさせてね」・・・救急車に乗る患者さんにはそう声をかけるが、欺瞞だ。分かってる。肺炎が治ったとしても、ここまでの状態の患者さんの多くは家に帰ってこられない。

 一緒に救急車を見送る訪問看護師さんからは「もう、なんで送っちゃったの。最期まで自宅でみてあげたかったのに、、、」と肘をつつかれ、、、。うん、そう。自分も家で最期を送ってあげたい。でもさ、、、

 昨日、病院で亡くなられたとご家族から連絡があった。ご家族からは、最期まで家族が見送って、穏やかに送ることができた、と感謝の言葉を頂いた。お言葉はありがたい。・・・でも自分の心は晴れない、、、

 訪問看護師さんともメールをした。その看護師さんも、約束を果たせなかったことがずっと気になっていて、たまたま亡くなる前日、病院にお見舞いに行って、苦しい呼吸のなか会話をして謝罪してきたそうだ。
「一時退院の話がでるまで回復されたとのことで、あの時の先生の判断で良かったのかとも考えました。」「どうすれば良かったのか、これから先も考えていくのかなと思ってます。」

 ターミナルで肺炎など感染症になる。よくある。自宅で診るのか病院に送るのか悩む。よくある。どこまで本人の意志を尊重し、家族の意志を尊重し、医学的にも良いパフォーマンスを出せるか。今まで何度も経験したし、今後も何度も経験するだろう。

 でも幾ら経験したところで正解はない。何をどう選ぼうと、納得できる選択ではないだろう。自分のミスってわけでもない。自宅か病院か、なんて単純な場所だけの選択枝でもない。最後、いや"最期"まで答えもわからない。・・・ただ、モヤモヤした気持ち、だけが残る。

 モヤモヤする気持ちに耐えて共存する、、、違うな、そんな強くもかっこよくもない。モヤモヤはなくならないと諦める、ってとこだろうか。。。
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2012年10月29日

アロマの魅力

こんにちは、SMCケァステーションさなだのスタッフになり2ヶ月半が過ぎました。
小島尚子です

私の一番の拘りは、アロマを始めて暫らくしてからオリジナル石鹸を作りました

使い初めてからw(°O°)w石鹸だけでシミやシワが薄く小さくなっているんです

アロマのもう一つ『クレイ』の魅力にも惹かれて、 クラフト作りをする度しています。
次回に私のお薦めクラフトを紹介したいと思います。

癒しでもあり、一緒に行く散歩が楽しみでもある我が家の自慢なワンちゃんを紹介します
柴犬のケン(♂)9歳
ジャツクラッセルテリアのもか(♀)4歳
とても^ー^)人(^ー^です。

まだまだ未熟者ですが宜しくお願いしますm(__)m。

kojima.JPG


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