2013年02月25日

院長が知っておきたい!スタッフとの関わり方

クリニックに届く私あてのFAXは、いつもならスタッフが机に置くだけなのですが、このFAXはわざわざ「はい、勉強会の案内がきていましたよ」と、満面の笑顔を込めて、渡されました。
私も、「講師としてなら、ぜひ参加します」と満面の笑みをこめて、スタッフに返事をしました。

スタッフとの関わり方.jpg
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2013年02月10日

ちょっと嬉しい御近所感

患者さんが、「上手に撮れたのであげます」と、うちのクリニックの入口の写真を受付に置いてサッと去っていったそうです。
このさりげない心使いが、ご近所感というか、地域だよなぁ、とチョット嬉しい。

クリニックの写真.jpg

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2013年02月05日

看取りについて

医師だが現在、社会系の大学院に通い在宅の看とりについて社会学研究を行っている、ある先生から、研究のお手伝いでインタビューを受けた。

「看とりと在宅医療に関して、日ごろ感じていること」
「看とりは敗北か?」
「看とりは地域で考えるべきか?」
さまざまな質問に答えることを通して、自分でもいろいろと深く考える、良い機会を持てた。

質問に答えながら、ふと気付いた。そもそも病院という場において「看取る」ことは、できないのではないか? 思い出すと、自分が病院で働いていたときも、患者さんが病院で亡くなることについて「看取る」という表現はあまり使っていなかった。あくまで在宅など「生活の場」で死を迎えるからこそ「看取る」ということができるのではないだろうか。

そう考えると「看取る」というのは単に、「死の場面に同席する」「生物としての終了を確認する」ということでは、決してない。勿論その意味も含むが、それ以上に、死を迎えた人の人生の意義を確認し、関わった家族や医療者など「生の側」に残る人と「死の側」に旅立った人との、新たに作られた関係性を確認し再定義する、そういう作業なのではないかと思う。

「それは医療者の仕事じゃない、宗教が行う仕事だ」と思うかもしれない。確かにそうだ。しかし、いまの日本で形骸化した宗教に、本当にその役割を担えるのだろうか?。

過去、いちどだけ、深くかかわった患者さんの葬儀に出席したことがある。その患者さんはプロテスタントであり、教会の葬儀に出たのは初めての経験だった。キリスト教の葬儀が全てそうかどうか私は知らない。だがその式では、参列者みなに分かる言葉で、本人の死の意義をあらためて提示し、「みなで天国に送る」ことを実感できた儀式だった。不謹慎かもしれないが、その新鮮な体験に「感動」したことを鮮明に覚えている。これが「本当の意味での葬式なのだ」と感じた。

過去、多くの仏式、神式の葬式に参列したが、正直、どの式でもお坊さんや神官が何を言っているのか全くわからなかった。御経や祝詞の合間にときに聞こえる固有名詞をかろうじて判別できるだけで、あとは終わるのをじっと耐えるのみ。死の意義を提示されることも、参列者に話しかけることも全くない。わざと分かりにくくして、権威を付与しているのではないか、と勘繰ってしまう。

形骸化した宗教が、生き残った者に対して、死の本当の意味を付与する役割を担えないのであれば、医療者がその役割を、わずかであっても、できる範囲で、担うしかないのではないか?ちょうど、父親や母親が不在の家族で、子供が父・母の役割を、不十分であっても担うようになるのと同じように。 

死亡確認=看取り、ではない。

これからも在宅での看とりに関わっていくならば、自分では役不足だし不十分なことを承知しながらも、よりよい「看取り」ができるよう精進していかなければならないのだろう。

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2013年01月30日

学校医の依頼

ついに来た来た、、、医師会から、学校医の依頼。

「来年、学校医の先生が数人、一気におやめになることになって・・・」
「なかなかやってくれる先生がいないもので、先生にお願いできないかと」
「とはいえ、仕事はこんなにも少ないですから、何とか」
・・・と、とても謙ってお願いされましたが、勿論やらさせて頂きますよ(^^

仕事は増えますが、学校医として地域で試したいこと、いろいろあります。
もともと学校医の先生は決まっているだけに、自分からやりたい!と手を挙げるのは、出来ないものなので、何とも嬉しい依頼でした。
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2013年01月25日

真冬の怪談

その日は午後の訪問診療の処理に時間がかかり、その他の書類も随分とためていたので、夜遅くまでクリニックに残って、ひとり事務仕事をしていた。

仕事もひと段落し、さて帰るかと携帯をもち、荷物を手に取った矢先、突然クリニックの電話が鳴った。

(誰だ、こんな夜遅くに、、、)

無視してもよかったのだが、患者さんが何か困って電話をかけてきたら、ということが頭によぎったため、少し考えてから、受話器をとった。

相手「・・・・・・(無言)」

(イタズラ電話か?)

私 「もしもし?」
相手「・・・(遠くのほうから)モシモシ?」

(そっちから電話かけたんだろう・・)

私 「どなた様ですか?」
相手「・・・・ ドナタサマデスカ?」

(やはりイタズラ電話なのだろうか、、、)

しかし、なんだか雑音も入っている遠くからの声、、、
その後暫く、相互の沈黙が続いた。
ほんの10秒くらいだったかもしれない。
なんだか背筋が寒くなってきた。
時計は、もう0時近くを指していた。

(誰なんだ、ほんとに・・)

そこでふと気が付いた。

そうだ!クリニックの電話には、相手の電話番号を表示するナンバーディスプレイがある。とりあえずイタズラであっても、相手の電話番号はわかる。

そこでみた電話のディスプレイ

なんとそこには・・・・見覚えのある自分の携帯電話の番号が表示されていたのだ!

(ヒィィィ!!)

はい。
自分が携帯を手にしたとき、自分でクリニックに間違い電話をしていただけでした。
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2013年01月11日

医療の不確実性

「医療の不確実性」を患者さんにどう理解してもらえるか?
 
特に病院で働いていたときには、治療の結果がはっきり出るため、悪い結果が出たとき、まれに患者さんや家族から責められる、という場面に遭遇することもあった。もちろん治療としては標準的治療を行ったとしても。

自分は病院では内科医だったが、結果がさらに明瞭に出る外科の先生にとって、患者さんに「医療の不確実性」を理解してもらうことは切実な問題ではないかと思う。その他、整形外科、眼科、耳鼻科、脳外科、など後遺症がはっきり自覚できる領域などもそうだろうし、産科に至っては周産期死亡率が世界一低く「正常であたりまえ」の昨今、期待値も高く、正常でなかったときの落差があまりに大きいため、両親や親族に「医療の不確実性」を理解してもらうのは至難の業かもしれない。

どんな優秀な最高の医療を行っても、100%良い結果で悪い結果がゼロ、ということは絶対にない。医療者の側からみれば、悪い結果は確率的に絶対に起こってしまうことだ。しかし患者さんの側、というか結果の側からみれば違う。結果は、白か黒か、どちらかだ(灰色の結果も実は多いが、医療の不確実性、の話として)。将来の確率論的な視点=医療側の視点と、結果からの視点=患者側の視点が異なり、ときに結果の視点から、将来の確率論的な視点が裁かれてしまうことがある、というのは永遠の課題でもある。

この視点の違いをどう説明すれば、視点の歩み寄りができるだろうか、、、、

ふと思った例えが、治療にあたる患者さんと医師の関係は、入試試験を控えた受験生と、勉強を教える先生の関係に似ている、ということだ。どんなに出来のよい生徒でも、どんなに優秀な先生でも、試験は水ものなので、体調やちょっとしたミスや焦りなんかで、落ちるときは落ちる。逆に、どんなヘボな先生でも、あまり出来の良くない生徒でも、その日の調子やヤマがあたって受かってしまうこともある。ただ、優秀な先生、生徒であればあるほど、試験に合格する「確率」は高くなるし、ヘボであればあるほど「確立」は低くなる。あくまで、確立、の問題だ。

「受験は受験生本人が意識して頑張るかどうかにかかっているが、患者は単なるまな板の鯉だ」というかもしれないが、患者さんの「意識」はまな板の鯉だったとしても、体のほうは懸命に頑張っている。感染症についても、どう正しい抗生剤を使おうと免疫力が低下していれば治療することは困難だし、術後の回復にしても同様、手術はできても回復は患者自身の治癒力に委ねられている。

ただし「標準的治療」の範囲を超えては、さすがにアウトだ。他の医師も「これはおかしい治療だよ」というような治療を施して悪い結果が出たとしたら、これは責められてあたりまえ。受験生にソロバンを教えて、受験に落ちたら先生が責められて当たり前なのと同じだ。しかし、「標準的治療」を行っていたとしても、その範囲が非常に広いのもまた事実。「標準的治療」のなかに、ヘボもいれば優秀なのもいる。当然その優劣によって、結果の「確立」も変わってくる。

医療資源は限られている。いくら自由診療といえども、現実的に、患者にそれほど多くの選択はない。また一般の患者が医師の優劣を判断する基準も、実際は多くはない。ツテをつかって医師の評判を聞くか、実際医師と話をして信頼できるのか、直感に頼るしかないかもしれない。最近はセカンドオピニオンも広まっているのでそのような手もあるにはある。その限られた選択肢のなかで、bestは無理でもbetterな医師を選び、最終的に治療するかどうか、までの決定権は患者にある。決定した後は、へぼな医師でも優秀な医師でも、選ばれた医師はその医師なりに頑張る。残念ながら結果は「水もの」だし「確立」に委ねられるしかない。

医師の言い訳、のように聞こえるかもしれないが、受験生を送り出す先生のような気持ちで、医師は治療にあたっている、ということを少し患者さんに理解してもらえるとうれしいな、と思う。
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2013年01月09日

地域医療の仕事

 年のわりに元気で大きな苦痛もなく、まぁ幸せに生活しているんじゃないかな、と思われる80代、90代の高齢者の患者さんから「もういつ死んでもいいよ」「こんなに長生きするつもりじゃなかったのに、、、」「そろそろお迎えに来てほいなぁ」という意見を普通に聞くことが多いです。別に「高齢者うつ病」とかではなく、とても自然に本音をいう雰囲気で、そのようなつぶやきを聞きます。ときに家族からも、本人を疎んじているということではなく「おばあちゃん、そろそろお迎え来てもいいよねぇ」など、周囲が納得する雰囲気で、半ば冗談ながらも同じような意見をきくことすらあります。

 病気をとことん克服しつくし、社会の栄養状態も改善し、多くの高齢者はそこそこ快適な生活を送っている。この先、アンチエイジングの技術、癌の克服、さらにはiPS細胞の技術の臨床応用などでますます病気を克服し、長生きを進めて、その先に個人や社会の幸せはあるのかなぁ、と思います。

 地域医療を担う医師は、まさにその自然な疑問と正面に向かい合って、健康に関する幸せって何なのか、現場現場で再定義しなおして、目の前の患者さん(そもそも"患"者、という言い方が意味を限定してますね)に適応していく、というのが仕事なのだな、と改めて思います。
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2013年01月05日

施設での看取りについて

最近、自分のクリニックの付属施設、以外の施設での看とりを、続けて経験した。両施設とも看とりは初めての経験で、施設側も当初は躊躇していたが、いろいろ話し合いのなかで何とか一例目を経験することができた。

これからは「施設での看とり」はいやがおうにも、時代のテーマになってくる。今回の経験のなかで、いくつか気付いたことがあった。

まず居宅と施設の看とりを比べて一番大きな違いは「施設には訪問看護師がいない」ということだ。看護師がいる場合でも、日中だけの勤務で夜間の臨時対応はやらないことや、点滴などちょっと踏み込んだ医療処置は行わない(という条件でそもそも就職している)ことも多い。

だが、どうしてもターミナルの時期は医療行為が不可欠だ。経過がソフトランディングで穏やかであっても死に向かう変化はあり、苦痛や便秘の対応、点滴など医療的な処置も必要になることも多く、夜間休日の臨時対応も増える。死後の処置も必要だ。医師だけでこの医療行為全てを行うのは体制的に難しい。

ひとつの解決は、施設の看護師で対応が難しいなら、外の訪問看護を入れてしまうこと。ただこれは事前にしっかりと施設側、依頼する訪問看護ステーションと事前に話をつけておく必要がある。ただし、介護付き有料老人ホームやグループホームは「まるめ」のため、介護保険の限度額まで施設で使いきっており、外の訪問看護ステーションが介護保険を使う余裕はなく、医療保険でないと訪問看護が入れない。しかし医療保険を使って訪問看護が入れるのは、がん患者や特定疾患患者だけなので、いわゆる老衰など、非がん患者のターミナルでは医療保険を使うことも許されていない。例外的に状態が悪化したときの14日間のみか、重度の褥瘡のときは医療保険を使えるが、それだけで非がん患者さんを看取る体制が作れるはずがない。しかも、施設入居中の方が何らかの病態の変化で、施設での看とりを考えるような状態になるのは、がんや特定疾患よりも、非がんであることが多いだろう。
そのきわめて制度的に限られた条件のなかで、医療機関−施設−訪問看護ステーション と話し合って、看とりの体制を作っていくということになる。

ちなみに当院の付属の施設は、そうした制度の限界があることを分かったうえで、最初から施設で医療行為・看とりを行うことを前提に作られているため、「在宅型」の有料老人ホーム、の形態をとっている。つまり、介護付きの施設ではあるが、個々の部屋は患者さんの「賃貸住宅」扱いであり、訪問看護・介護ともに居宅にいる患者さんと全く同様の「外部サービス」利用のため、訪問看護における制度上の問題は生じない。

結局、現実的には、施設にいる看護師さんに出来る範囲での看護の体制をとってもらい、看護師さんがいない施設については介護士さんでできる範囲での体制をとってもらい、できないことはできない、と割り切った上で、家族にも納得してもらって、看とりの体制をとっていくしかない、ということになる。点滴が必要でも日中の看護師が勤務している間しかできない、夜間休日の病態の変化でファーストコールは看護師でなく医師が対応する、看護師がいないときに痰づまりがあっても気管吸引はできない、死後の処置は清拭や着替えのみ行いあとは葬儀屋さんに任せる、などなど。それぞれの施設の考え方や事情をよく聞き取って理解したうえで、患者さんの病態や状態とあわせ、予想される変化への対応について、出来ることと出来ないことを具体的に想定し、医師・施設スタッフ・患者家族ともに共有しておく必要がある。また、医師はふだん訪問看護がどんな仕事をしているか理解し、ある程度は医師自身も訪問看護師と同じ働きができないと、そうしたマネージメントをすることは難しい(例えば、死後の処置を自分も一緒に行いながら、介護士に指導できるなど)。

施設看とりをする上で最も大きな具体的な問題がこの「看護体制をどうつくるか」ということと私は感じているが、その体制をつくる前提として「そもそも組織全体の方針として、施設での看とりをどう考えているのか」ということを明確化して医師・施設・家族ともに共有して確認しておきたい。そのためには、施設の責任者はもちろんのこと、もし全国展開している大きな組織であれば、さらにその上まで話をもっていってもらって巻き込んでおく必要がある。責任感のつよい、やる気のある現場スタッフや施設長ならば「うちで看とり、頑張りたいです!」という意気込みを持っていることも多いが、たとえ現場がそう思っていても、その上がそう思っていない、ということもあるからだ。

今回も、施設長のさらに上の人も呼んで話し合いに巻き込んだため、その後はスムーズにことが運び、現場スタッフや施設長も、その上が理解していると思えばこそ、安心して看とりのときを迎えることができた。

また、最期の看とりに直面する、現場スタッフの教育も欠かせない要素だと思う。スタッフが看護師ならば研修中に病院でさんざん看とりの場面は経験しているため、例えその施設では初めてでも動じることはないだろうが、介護スタッフの場合「もし今夜、呼吸が止まったらどうしよう・・・」という不安でいっぱいになるのが当然だ。だからこそ、がん・感染症・老衰、などそれぞの病態にあわせたターミナルの病態変化について、どのように変化するのか、また変化したらどう対処するのか、ということを具体的に細かく説明しておくと、介護スタッフも安心して最期を看取ることができる。
「顎で息をするようになると、いよいよ数時間で息をひきとるサインです」
「たとえ苦しそうな呼吸に見えていても本人は苦しくないので大丈夫ですよ」
「呼吸が乱れてもすぐ医師を呼ぶ必要はなく、呼吸が止まったことをしっかり確認してから連絡でよいですよ」
「さっきまで変化がなくても、見回りにきたら息がとまって発見される、ということもありますが、そういうものなので焦る必要も自分を責める必要もないですよ」
・・・など、居宅で最後を看取る患者さん家族に対するのと同じ様に説明しておくと安心するだろう。個々のスタッフに医師から説明するのもよいが、ちゃんとカンファレンスを設けて、医師から直接、または施設長や施設の看護師から、そうしたことを現場の介護士に共有するようなミーティングの場を作っておくと、落ち着いた現場の雰囲気が作れる。

今回、2つの施設でのはじめての看とりを経験したが、どちらも組織の考えや、実際にとれる体制などがそれぞれに異なっていた。「施設看取りはこうしたほうがよい」という一つの答えを提示することができないのは、在宅で看とりをするときと全く同じだ。だからこそ、医師・施設・家族、その他関係者をまきこんで、それぞれオーダーメイドで看とり体制を作っていく、ということを続けていくことが、結局は、逆に、全国どこでも広く行えるような、施設看とりの大きな潮流を形づくっていくことになるのではないか、と感じている。

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2013年01月04日

アイデンティティ

先日、うちのクリニックを去って地元に戻る予定の寺内先生と話していて、在宅患者さんの話題になった。在宅だと、外来に比べてもより医師-患者関係も深くなっており、自分が去ったあと患者さんがどうなるか、とても不安だと。これがもし「ここが自分が一生やる場所だ」と決めていたら、自信をもって「最期までみるからね!」と患者さんに声をかけられる。ただ今の場所は(去ることを前提に来たため)それができない。だからこそ自分は、しっかりホームベースを早く作りたいのだ、と。そして、ひと呼吸おいて呟いた。「地域医療、これが怖い、、怖いなぁ」

それを聞いて、自分の中で今まで悩んでいたパズルのピースがふっとはまった。

昨年末、東海大学の学生さんに対して、家庭医療ワークショップを行った。自分は家庭医の基本的なことのレクチャーを担当したが、その中で、「家庭医」を表す言葉は、家庭医以外に、地域医療、ジェネラリスト、総合医、在宅医、プライマリケア医、などいろいろあって、概念もそれぞれ微妙に重なっていたり、異なっているような話をした。

その話を作りながら、今の自分のアイデンティティを顕す言葉って、いったい何になるのだろうか、、、といろいろと考えていた。以前からも考えていたが、答えは見つかっていなかった。

自分は「家庭医」の研修をうけていたため、いままで身分を名乗る必要があるときは「家庭医」を名乗っていた。名刺にも「家庭医」の肩書きをあえて入れてある。「家庭医」という言葉自体がキャッチーでもあり、人との話題にもなりやすいし、印象に残ってもらいやすい。地域でもちょっと深く話した人には「家庭医の小宮山先生」と覚えてもらっていると思う。

ただ正直にいえば、自分の中では「家庭医」という言葉は、どうしっくりときていなかった。何だか言葉自体が輸入された感じもあるし、「家庭」医って、けっこう概念が規定されている言葉だなぁ、とも感じていたからだ。また、自分のなかでは、臓器別専門医に対してのアンチテーゼの意味も含んでいるような印象もある。それが、どうもしっくりこない違和感に通じていたのかもしれない。

それが改めて「地域医療」という言葉に、尊敬と畏れの念が込められた「地域医療、これが怖い、、怖いなぁ」という呟きをきいたときに、これだ、と腑に落ちた。地域医療、という言葉には、専門医と総合医の対立概念も含まれていなければ、狭義の医学生物学的医療に限定された意味も含んでいない。何より「つながり」をもってはじめて成立するような医療の意味合いをふくんでいるのが、自分のなかではいちばん腑に落ちた点なのだと思う。

考えれば、10年以上、医療現場に携わってきて、自分の中でもっとも価値をおきたいと思っていたのは、地域住人とのつながり、同僚とのつながり、一緒に働くスタッフとのつながり、だった。そのつながり、がもっとも前面に出ている言葉が「地域医療」ではないかと思う。

これからもおそらく「家庭医」という言葉は名乗っていくと思う。マイノリティーとして外にアピールするには、これくらいキャッチーな言葉が必要だからだ。ただ、自分の中では、「地域医療をやっている」というのが自然な自分のアイデンティティとして持ち続けていくことになるのではないか、と感じた。
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2013年01月01日

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年も書道の先生である患者さんが書いてくれました(^o^)

謹賀新年.jpg
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2012年12月04日

良いことあるかな?

午後訪問開始。良いことあるかな。
うっすら二重になってるの分かります?

虹.jpg

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2012年11月23日

「翻訳」家として

訪問診療でずっと長いつきあいの患者さんが、1カ月前に入院となった。入院中の経過も紆余曲折ありながら、結局は意識障害となり、病院の医師から胃瘻をすすめられ、大きく悩まれる状況のなか、在宅主治医として相談を受けた。

病院側からの情報診療提供書をみると、確かに医学的にも難しい経緯で、病院の先生も悩みながらの治療をして、それでもはっきりしなかったり、治療しきれないところも多かったようだ。その部分について、依頼している自分が、どうこう言える立場ではない。また安易に、家族に「こうすればよかった」などと、決して言ってはいけないとは思う。

ただ、入院の経過説明が不十分だった点については、どうしても家族は納得しておらず、私もその点についてはやんわりと同調・共感をしつつ、あらためて家族に対して、情報診療提供書を一緒に読みながら、「翻訳」して家族に伝える。おそらく病院の先生も内容の説明はしているとは思うが、家族としては「初めて分かった。初めて聞いた」という反応で、経緯について腑に落ちてくれたようだった。専門医の「翻訳」は、家庭医にとって、大きな仕事のひとつ。そこで納得してくれて、はじめて次のステップにいける。

胃瘻をつくるメリット、デメリット。とくに、長期的な介護になることについての介護負担の説明。また、そのまま胃瘻を作らず退院して、自然死という選択もありうるということ。帰る場所として、自宅以外に、施設も種類が多々あり、それぞれに特徴があること。またそれなりに時間もかかること。

家族の想いを受け止め、それだけの作業を納得してすすめるにはどうしても時間がかかる。平日の業務内。または業務後、であっても、それだけ時間をかけるのは難しい。

今日は休日だが、休日だからこそ自分も思う存分時間をかけて、十分な理解を得られるところまでもっていくことはできた。ある意味、とても有意義な休日を過ごしている、と感じる。
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2012年11月14日

似顔絵

うちの施設の入居者の方が、私の似顔絵を描いてくれました(^^)

似顔絵.jpg


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2012年11月11日

職員対象の一次救命処置、の講習

職員対象の一次救命処置を開催。
やっとこういうことが出来るようになってきた。
ちなみに、講師は、もと救急救命士で消防署長でもあった事務長です(^_^)

BLS.jpg

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2012年10月31日

モヤモヤはなくならない

 在宅で最期を迎えることを希望して一切の治療を拒否し、自宅で診ていた癌のターミナルの患者さんが肺炎になった。自宅での抗菌薬の点滴も奏功なく、呼吸不全がすすみ、家族ではとりきれない痰づまり、呼吸困難も出現して臨時で呼ばれた。

 苦しそうな頻呼吸、低酸素。ずっと一緒に看ていた訪問看護師さんには「家にいたい」と訴えていたが、自分が呼ばれたときにはすでに意志をはっきり示せる状態にはなかった。「苦しさをとってほしい・・・」とかろうじての訴え。

 このまま在宅酸素など入れてしのぎつつ、本人の意志を尊重して、苦しさの中で自宅で最期までみるか、、、。ただ病院なら肺炎も治る可能性もある、、、しかし、治っても自宅に戻れるようになるか、、、。悩む時間も許されないなか、家族から「これ以上は家では診られません」とギブアップ宣言。家族が診られないならば、、、、半ば説得するかたちで、本人にも入院を了承してもらって、病院に搬送することになった。

 「また肺炎がよくなったら、帰ってきて、家でみさせてね」・・・救急車に乗る患者さんにはそう声をかけるが、欺瞞だ。分かってる。肺炎が治ったとしても、ここまでの状態の患者さんの多くは家に帰ってこられない。

 一緒に救急車を見送る訪問看護師さんからは「もう、なんで送っちゃったの。最期まで自宅でみてあげたかったのに、、、」と肘をつつかれ、、、。うん、そう。自分も家で最期を送ってあげたい。でもさ、、、

 昨日、病院で亡くなられたとご家族から連絡があった。ご家族からは、最期まで家族が見送って、穏やかに送ることができた、と感謝の言葉を頂いた。お言葉はありがたい。・・・でも自分の心は晴れない、、、

 訪問看護師さんともメールをした。その看護師さんも、約束を果たせなかったことがずっと気になっていて、たまたま亡くなる前日、病院にお見舞いに行って、苦しい呼吸のなか会話をして謝罪してきたそうだ。
「一時退院の話がでるまで回復されたとのことで、あの時の先生の判断で良かったのかとも考えました。」「どうすれば良かったのか、これから先も考えていくのかなと思ってます。」

 ターミナルで肺炎など感染症になる。よくある。自宅で診るのか病院に送るのか悩む。よくある。どこまで本人の意志を尊重し、家族の意志を尊重し、医学的にも良いパフォーマンスを出せるか。今まで何度も経験したし、今後も何度も経験するだろう。

 でも幾ら経験したところで正解はない。何をどう選ぼうと、納得できる選択ではないだろう。自分のミスってわけでもない。自宅か病院か、なんて単純な場所だけの選択枝でもない。最後、いや"最期"まで答えもわからない。・・・ただ、モヤモヤした気持ち、だけが残る。

 モヤモヤする気持ちに耐えて共存する、、、違うな、そんな強くもかっこよくもない。モヤモヤはなくならないと諦める、ってとこだろうか。。。
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2012年10月29日

アロマの魅力

こんにちは、SMCケァステーションさなだのスタッフになり2ヶ月半が過ぎました。
小島尚子です

私の一番の拘りは、アロマを始めて暫らくしてからオリジナル石鹸を作りました

使い初めてからw(°O°)w石鹸だけでシミやシワが薄く小さくなっているんです

アロマのもう一つ『クレイ』の魅力にも惹かれて、 クラフト作りをする度しています。
次回に私のお薦めクラフトを紹介したいと思います。

癒しでもあり、一緒に行く散歩が楽しみでもある我が家の自慢なワンちゃんを紹介します
柴犬のケン(♂)9歳
ジャツクラッセルテリアのもか(♀)4歳
とても^ー^)人(^ー^です。

まだまだ未熟者ですが宜しくお願いしますm(__)m。

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2012年10月14日

光る扇風機

インフルエンザワクチン始まり、泣く子対策で買った光る扇風機。
かなり効果あります。

扇風機.jpg


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2012年10月06日

在宅医療の現場から

院長小宮山です

少し前ですが、NEOSYSという雑誌で在宅医療についての取材を受けました。
よろしければご覧下さい

クリックすると拡大します
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2012年10月01日

愛犬とドライブ

はじめまして♪
皆さま、こんにちは。

今年の5月からケアステーションさなだで働いています、三原 薫と申します(´Д`)

訪問介護という仕事は初めてで入職当初は右も左も分からず、落ち込む毎日でした(T-T)でも職場の先輩方に色々なアドバイスを頂いたり、また入居者さんの優しい言葉に支えられて今まで乗り越えられたんだな〜、と感じています。皆さまに感謝感謝です(*^^)まだまだ仕事がのろい三原ですが入居者さんに喜んで頂けるようなケアを目指したいと思っています(^з^)

最近の事ですが、愛犬と山梨県の忍野八海までドライブに行ってきました(^-^)休みになると、どこかに行きたくなるんです(´Д`*)オススメのスポットなどありましたらぜひ教えてください♪

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2012年09月24日

青春とは

こんにちはメディカルホーム メディトピア真田の片岡です。

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SMCに就職しアット言う間に9ケ月が過ぎ去ってしまいました。
初めての職場と新しい職種で未だに戸惑いの連続で、皆様にご迷惑をお掛けしております。
年齢的には少々(?)年長組ですが、理事長や社長、SMCの各事業所の方たちに支えられ今日まで来る事が出来ました事を感謝致します。

常日頃心の支えにしております言葉があります。
それは「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。 …年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時初めて老いる。」幻の詩人サムエル・ウルマンより

SMCの皆様これからも宜しくお願い致します。
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